顕彰会会報寄稿
              菅茶山と頼山陽                                                       著者:上 泰二

はじめに
 2007(平成19)年度、福山市内では郷土の文化と教育などに貢献した「菅茶山と頼山陽」関連行事が続いた。県歴史博物館主催「博物館大学」(5回連続講座)とかんなべ文化振興会主催菅茶山生誕260年前年祭特別講演会「菅茶山と頼山陽」がその主たるものである。講師陣に前者は山陽の後裔、広島大学名誉教授頼祺一氏ら5名、後者は新聞連載時代小説「頼山陽」(2008年新田次郎賞受賞作品)作家身延典子氏が名を連ねた。
また、神辺町湯田公民館主催の「神辺を知ろう!Ⅱ」では「菅茶山と廉塾」をテーマに研修講座が開かれた。講師は佐藤一夫氏(当時福山城博物館副館長)。1998(平成10)年度県高等学校退職校長会福山地区支部総会(於 神辺町神宮閣)開催時の研修行事「かんなべ史跡探訪-神辺本陣-廉塾-菅茶山記念館」の案内役を務めた人である。
折から、福山地区支部は2007(平成19)年度秋季研修旅行の目的地として頼山陽ゆかりの竹原市町並保存地区を決定した。当初、私は事前学習を兼ね旅行当日までに「菅茶山と頼山陽」をまとめるつもりであった。しかし、いざ着手してみると、浅学非才、数多の壁に阻まれ難渋した。その上、今ひとつ切り口が定まらぬまま、年を重ね、現在もなお牛歩を続けてこそいるが、これぞ「三かく健康法(ものを書く、恥を掻く、汗(冷や汗も)をかく」そのもの閑行否難行苦行である。以下は本年菅茶山生誕265年祭の節目に「菅茶山顕彰会会報」(第20号2010年(平成20)3月1日発行)に寄稿した「丁谷梅林の留別」と紙面の都合で割愛した続稿を加筆修正の上、この「黎明」に寄稿することにした。大方の識者の御斧正を仰げれば幸いである。
丁谷梅林の留別
丁谷餞子成卒賦(二)
 数宵閑話毎三更 数宵の閑話毎に三更(夜半)
 未盡仳離十載情 未だ盡くさず仳離(別離)十載(年)の情
 送者停筇客頻顧 送者は筇(杖)を停め客は頻りに顧る
 梅花香裏夕陽傾 梅花香裏夕陽傾く
この詩は文政7年(1824)12月5日、茶山77歳、山陽46歳が廉塾から臨む黄葉山を主峰とする山脈の裏側、丁谷(ようろだに)の梅林で交し合った一連の唱酬歌の一つ。劈頭の詩文碑はJR福塩線神辺駅下車、国道313号線駅前信号を横断、直ぐ目前にブロック
塀で仕切られた神辺小学校、その一角にある神辺公民館前庭に建てられている。
作品の本舞台丁谷は石碑から約2㎞東南に伸びる谷間の集落。茶山が酒杯を漱いだ水源地近くの潯まで緩やかに遡っている澗流。山陽も僅か一夏の廉塾都講生活中、塾生とともに観蛍に訪れ、群舞する光の饗宴に瞠目している。今は無粋な三面コンクリートの側溝に沿った道路を遡ると、道半ば丁谷養老会館前に歌碑「わけいれば袖もかをるなりよほろの谷の梅の中道」(鈴鹿秀満)が道案内に建っている。程なく小さな渓橋に辿り着く。橋を境に幅員が狭まり、急勾配に変わる山路脇、黄葉山系と競走する南側山脈の麓に上下二区画の梅林がひらけてくる。
その昔、備後地方では三原(市)・西野(町)、(現福山市)郷分(町)・榮谷、(加茂町)粟根・大林寺が梅の三大名所だった。西野は明和8年(1771)、茶山・拙齋が初対面当日選んだ吟行地。榮谷は文政6年(1823)、茶山、山陽、門田朴齋が豊後日田からの塾生館林萬里送別の宴を開くため足を運び、山陽が満開には程遠いながらも「氷肌不許窺全姿 猶勝巻埋頭去 数尺瓶頭看一枝」と書斎の一輪挿しと対比、野辺の梅花の方に軍配を挙げている。
 一方、茶山は「平生唯愛梅香好」自他共認める梅好き、山一つ越えた隣村の丁谷梅林については、「従前愧我称梅癖 未識隣村有比林」と自らの責任のように歎じている。このことについて、郷土史家得能正道・後藤中詩両氏は、「備後史談」で「茶山がその存在を知らなかったため、これより前年に編集した「福山志料」で紹介しなかったことを示している」と。贖罪の念からか、歿年の早春、茶山は病身を押して、この丁谷、次いで榮谷の梅を尋ね、自らはそれと気づかぬまま永久の別れを告げている。
元はここ丁谷には上・中・下、三か所に梅林があった。時移り疾うに二百年余、淡粧素服、「寧随百卉競時粧」を好まず、「悪雨狂風裏」に耐え忍び、「独立寒雲冷石傍」、人知れず咲く花香故に茶山がこよなく慈しんだ件の歌枕のヒロインの命運は、敢えて夕曛の彼方に留めおきたい。ただ、来し方「鴨村(粟根)千樹懇成田」の詩文さながらに瞬く間に消滅の運命を辿った許多の名所旧跡に比べ、幸いにも遺芳を愛しむ邑人の献身で現在もなお石碑「茶山山陽餞飲之所」のみに留まらない往時の春景を年々歳々、彷彿させてくれることに深甚の敬意を捧げたい。
途上
埃樹 風生じて日は
そこはかとない慕情を掻き立てる母恋歌「将帰京寓遂奉母偕行」に象徴される母思いの山陽は生涯四度、かなり長期に亘って「輿行吾亦行 輿止吾亦止 輿中道上語不輟」、母の駕籠に寄り添うようにして歩を進め語らい合いながらの報恩の旅を重ねている。
母の「寂寥の日を慰めん為」、九州歴遊から帰郷したばかりの文政2年(1819)に次いで、この年、文政7年(1824)の春も山陽は母に侍従、広島~京都間の送迎つきで二百日余りに亘って京都各地を案内した。秋、母を広島まで送り届ける往路は母に連れ添い、それに京への復路は単身で、茶山の許に立ち寄り、五日間逗留、廉塾時代を顧みて「窻閲新文校魯魚」、茶山の詩の校正を手がける一方「狂態愧連夜曾追杜牧」、晩唐の風流詩人杜牧気取りで遊興生活を繰り返し「隠緃悔不伴林逋」茶山の忠告を無視したことを猛省している。その折、この詩で「林逋」に喩えた偉大な茶山と父春水歿後十載(実質9年間)の思い出話を中心に在りし日の父同様「夜もすがら」語り合ったが、話題は尽きることを知らなかった。
旅立ち当日、茶山は断ち切れぬ名残を惜しみ山陽を丁谷へ誘い、早咲きの梅香を愛でながら餞の詩酒をともにした。とこうする中、出立の刻限が迫り、お開きの「輿(駕籠)窓内外献酬」、とりわけ茶山の老躯には「手亀欲失杯」ばかりの刺すような寒気が襲う。「送者(茶山)は杖を突いて立ち尽くして見送り、行者(山陽)は頻りに送者の方を名残惜しげに幾度も振り返りながら次第に遠ざかって行く。折しも、梅香が漂う里に夕日が傾きはじめる。後に、山陽は同じこの場面を行者の側からロングショット、フェイドアウト、「夕陽未盡曛黒中猶顧見其植筇也」と回想している。
文化12年(1815)、父春水の病気見舞いに始まり、文政8年(1825)叔父春風急逝に至るまで七度に及ぶ山陽の定省。山陽は概ねその往復路とも欠かさず、恩人篠崎三島翁の「我を生むものは父母、我を成す者は茶山と心得よ」との忠告を肝に銘じ、茶山を表敬訪問した。
慈父、師兄、加えて親子ほどの年齢差を超え詩友として山陽を厚遇してくれた茶山。初
対面の広島、脱藩者と監視役として遠目に無言の対面をした神辺、幽閉・謹慎解除後の荒んだ心身を慰撫してくれた竹原、肉親に代って寛大な懐に抱かれた神辺、その恩義に悖る出奔後の京坂などでの出会い、二人の脳裏にはそれぞれどのような追憶が去来していたのであろうか。
茶山、山陽との初対面
天明8年(1788)6月5日、茶山は愛弟子藤井暮庵を伴って厳島の管弦祭を見物するため広島へ、所謂、「遊藝日記」(草稿本表記「藝遊記」)の旅の途についた。二人は、折からの長雨の後の道中、難渋しながらも、6月10日、広島の町に入り研屋町の春水邸(現頼山陽資料館)を訪れた。
生憎、春水は藩の学問所に出勤中で不在。春水の末弟杏坪と久太郎(山陽)が出迎えた。茶山41歳は杏坪の紹介で、山陽9歳と初めて対面した。
これに先立つ安永9年(1780)、茶山33歳は大坂の春水35歳の居宅「春水南軒」を拠点に「最も忘れ能わざる者、浪速の混沌社」詩友らと交流をしている。その前年の11月8日、春水は舅儒学者飯岡鉄斎に懇望され、その長女静と結婚したばかり。当時、茶山は新妻静21歳の懐妊を知り、出産の日を心待ちにしながら遊学を終え年末帰郷の途についた。すでにこの時から茶山・山陽の運命的な邂逅の伏線が用意されていたと言える。
同年、歳も押し迫った12月29日、久太郎(ヒサタロウ、のちの山陽)が誕生。茶山は神辺で春水からの1月25日付「男児誕生」の書状を受け取り、早速鴨方の西山拙齋へ朗報を伝え、喜びを分かち合っていた。
久太郎はわずか4日で天明元年元旦を迎え早くも数え年二歳になった。当時の年齢の数え方に従えば、山陽と同年輩の間には最大で丸二年の開きがあることになる。爾後、同年齢の子どもたちと二回りも異なる年齢差を忖度しない父を含む大人社会の目に見えないプレッシャーも山陽を精神的に追い込むことになったものと推察される。
しかも、父春水はある日、突然、一町人から武士へ、それも、一介の武士としてではなく、当時の支配階級である大名の教育に携わる高名な学者に栄進したのである。今や藩の文教を掌中にした春水にはわが子山陽のこの年齢差を斟酌するゆとりがあっただろうか。それどころか自分自身、几帳面な性格と相俟って成り上り武士だけに寸毫の失敗も許されない思いに追い込まれると同時に、山陽に対しても踏み外すことができない軌道に乗せられたかけがえのない後継者として過重な人間像を期待した。そのあまりに、わが子に次々に過密な人生ダイヤを組み込み、好むと好まざるとに拘わらずその一つひとつを強引に推し進めていったように思われる。
一方、母静は漢学、国学、和歌を嗜む貞淑温雅な妻であった。当時の社会通念に反し、例外的に親元大坂で過ごすことを認められたが、それ以降は実父の意向もあって、藩主の世子、浅野齋賢の侍読として江戸勤番の夫との長い別居生活を強いられ、しかも儒学者の家庭とは言え、従前の開放的な庶民文化都市生活から一転、田舎の上級武士の妻としての鋳型に嵌められた生活の煩わしさの中で、その補償作用として山陽を過保護、溺愛し、その結果山陽の自立と人格陶冶を妨げる一因となり、外面的にはさておき、内面的に父子の対立をますます歪曲させ、癇症、遊蕩、遂には脱藩という死命、一家の存亡を制する一大事を誘発させたものと考えられる。
(幼名)久太郎(実名・諱)譲(12歳~)、(字)子成、子賛(成人後)、(別号)改(悔)亭・(20歳)憐二(21歳)、(綽名=父春水の山陽に対する蔑称)大豚、狂豚、癇児癇生、大児、旅猿、(雅号)山陽(外史)、(三十六峰)外史、梅坨、龍門、(諡)、夥しい呼称一つをとって見ても、その波乱万丈の生涯が窺える。就中、父春水が息子に放った蔑称は素行不良、非常識な言動、倣岸無礼な言動の留まることを知らない山陽批判もさることながら、各地を旅行し富豪の揮毫の求めに応じて潤筆料を稼ぐ、「乞食根性」に憤懣やるかたない思いを抱いていたと思われる。後に九州遊歴で出会った広瀬淡窓は「山陽は天下大一流の才人なるも、惜しむらくはその人となり、簡傲にして礼なく又利を貪る」と評している。
その呼称の内包する意図がそれでなくても鋭敏で繊細な山陽に心身両面にわたる極度の重圧と反発を呼び、遂には腹瀉から癇癖への個疾を慢性化・亢進させたものと思われる。このことは姜狂とも囁かれた山陽の精神不安定期が幼少期から青年期を経て、32歳で大阪に私塾を構えた途端、周囲の人々には山陽が「単なる癇癪持ち」と見做される程度に沈静化していることを考えると、それを単なる加齢に伴う自然淘汰と推断するには少々、抵抗があるように思える。
この日の初対面について、この夜、春水と交わした詩の後半で、「喜見符郎(ここでは山陽)耽紙筆 童儀不倦侍書櫺(書窓の格子)」と子供にしては少々大人びた挙措と勤勉ぶりに感心している。また、「久太郎は九歳になったばかり。利発で遊びを好まない。客を喜び、座って相手をしても終日倦むことを知らない。詩及び書画を学んでいる。どれも観るべきものがある」と日記に記録している。山陽はうれしそうに、茶山らに林子平の「三国通覧図説」や「道味魚石」(高麗の紅魚化石)を出して見せたという。実のところ、山陽はこの前年から癇症の発作に見舞われていたが、茶山逗留中はその気配はなかった。
その後、茶山は留守がちな長兄に代わって、何くれとなく長兄の家と家族を見守っていた杏坪あてに、「久太郎様、詩作よくお出来きになり、書も見事です。さてさてお羨き事」(寛政4年(1792)4月6日付)と書状を認めている。茶山自身子宝に恵まれなかっただけに、尚更、その思いが相乗効果を齎し、お互いの相性を高めて行ったに違いない。その日を境に山陽との交流が続き、脱藩・謹慎解除・竹原での再会・廉塾招聘・出奔・上洛・父子和解を通じて、終生、学問・生活上のよき相談相手としての役割を担っていたものと思われる。
少年時代の山陽

安得類故人千戴列青史
寛政3年(1791)、12歳にして「男児不学則已 学則当超群矣」の当たって砕ける超群の立志論を展開、周囲を驚かせた。更に、寛政5年(1793)、山陽14歳は早くも「安得類故人千戴列青史」と、大人顔負けの願求を詩に託し、折しも在府中の父に送っている。
十有三春秋 逝者已如水 十有三春秋、逝く者は己に水の如し
天地無始終 人生有生死 天地、始終無く、人生、生死有り
安得類故人 千載列青史 安んぞ古人に類して、千載青史(歴史書)に列するを得ん
山陽の噂を伝え聞いた柴野栗山は春水に国史研究の推奨図書として「先ず『通鑑綱目』から始めよ」と。早速、春水はこの助言を薩摩国・儒学者赤崎海門(元礼)が帰国の途につく幸便を得て山陽に伝えている。これを機に国史研究の志を固めた。山陽は齢満12歳、当時、人生僅かに50年と謳われた平均寿命、元服(寛政8年(1796)1月8日)を旦夕に控えた年齢とは言いながら、湧出する多感な思いを詩文に込めている。限られた命を惜しみつつ、後世に語り継がれるような永遠の歴史書の発刊を自らに課している。顧みれば、この生涯不変の願求こそがやがて山陽の破天荒な少青年期を創出することになるが、そのモチベーションの淵源を父春水まで遡ることができるように思う。
明和9年(1772)11月9日、後桃園天皇崩御、光格天皇が皇位を継承。元号が安永と改まった安永元年12月24日、春水は水戸光圀編集の「大日本史」写本101冊を広島藩主浅野重晟へ献上。緻密な写筆に瞠目した広島藩から登用の沙汰があった。何故か父享翁の意向で春水は「辞退文」を届けた。しかし、藩がこれを認めなかった。
天明元年(1781)12月17日、正式に広島藩儒に登用された春水は、天明4年(1784)10月、藩邸重役に「修史事業」許可申請を提出、事業推進のため、①「大日本史(自写本)」「通鑑」の借覧、②助手の人選、③筆紙墨の供給を申し出た。翌天明5年修史事業は許可され、春水は直ちに事業に着手した。しかし、寛政元(1789)年、神武天皇から開花天皇まで完了したところで、中止命令が出た。幕府について筆が及ぶことを危惧しての命令であったと思われる。森鴎外が「頼氏の事業が一代の業で無い」としている所以である。
表面的には、父春水とそりの合わない面が目立つ山陽だが、その内奥に意識下の流れとして父が早くから関心を抱きながら未完のまま中断を余儀なくされた修史事業を自分の手で完成したいという夢を膨らませて行ったのではないかと思われる。
秋ごろから、山陽(14歳)、持病の躁鬱病が再発した。梅颸日記に、久太郎「少々気分が重い」「今日あたりから無言」「狂気のようになる。物事を疑い深い」の記述がある。
寛政8年(1796)山陽、元服。6月ころから、山陽の宿痾が暴発。その養生を兼ね、寛政8年(1796)10月26日から11月12日まで、山陽は杏坪に伴われ有福湯治旅行。終わって11月26日から12月29日まで竹原の春風の所で保養している。長期療養の甲斐もなく、春水の日記を辿るとこの師走には山陽の暴走に堪り兼ねたか「禁足」を命じている。
東遊漫録の旅
そうした精神不安が江戸遊学という転地療法で多少でも鎮静化できればとの思いがあったかもしれない。寛政9年(1797)3月、杏坪は病身の春水に代わって、藩公の嗣子浅野齋賢の侍読となった。この機に、杏坪は山陽(18歳)を伴い、江戸へ向かった。親元を離れ、異なった環境で生活することによって、多少でも持病が快方に向けばという両親の願いがあったものと思われる。途中、3月17日、廉塾を訪ね一泊した。茶山と山陽とは9年ぶりの再会であった。この往路の旅行記「東遊漫録」によれば、この日、尾道から今津まで船便を利用し、福山城の天守閣を望みながら芦田川を渡渉、神辺の「山陽に隠れなき菅太中といへる父執の家」を訪れ、別荘「黄葉夕陽村舎」で礼卿兄弟(茶山・恥庵)の歓待を受けている。この漫録には、「夕陽黄葉村舎図」が添えられ、茶山が好んで植栽したと伝えられる柳と講堂の竹縁から臨める東池が描かれている。
意外にもこの遊学は僅か一年余で打ち切られた。この間、山陽は尾藤二州、服部栗齋に経学を学ぶかたわら国史研究にも心血を注いだ。また昌平黌で山崎闇斎の学を修め、尊王思想に影響されたとも伝えられている。江戸到着後間もなく、山陽は母あてに「去年のような事は一切出来ません。懲りています」との書状を届けている。山陽のこの遊学期間中の生活ぶりについては謎とされている。恐らく持病の再発で外聞を惧れ、当初描いていた目的を十分果たしえぬまま、遊学を中断したものと推測される。
寛政10年(1798)、5月初旬、山陽は杏坪と江戸からの帰途にも、廉塾を訪れている。
その際、山陽は茶山に「大楠公墓下」の詩文の評閲を求めている。この詩の批正も含めてであろう。茶山は次の詩を山陽に託している。
 千里遊方何所成 千里の遊方何の成す所ぞ
 談経二歳侍陽城 経を談じて二歳 陽城に侍す
 帰来有献尊親物 帰来 尊親に献ずる物有り
 不独奚嚢珠玉盁 独り奚嚢に珠玉の盁つるのみにあらず
この江戸遊学について、茶山は「山陽が江戸遊学によって多くの詩を得たばかりでなく、二年間尾藤二州に侍したことによって儒教の本道たる経学においても得る所があり、それを両親への献上物として帰って来たのであろう」と「はるばる遊学して学業の成果はどうであろうか。天下の中心地江戸で二年にわたって経学を研究したのであろう。帰って来て、尊親に献上するものがあるだろうか。ただ、詩の袋が満ちただけだというだけでなく。」という趣旨の詩を山陽に贈っている。賛辞と思える前者の「多くの詩を得た」と、後者の「詩の袋が満ちた」の件が皮相的に捉えられるが・・・
5月13日、広島に帰ってからの山陽の鬱症はますます昂進した。しかし、「所帯を持てば、落ち着くだろう」性的欲望の解放が治療に繋がるという俗説が春水の脳裏を過ったのかも知れない。久太郎の嫁探し急いだ。
寛政11年(1799)2月22日、山陽(20歳)は藩医御園道英の娘淳子(15歳)と結婚した。結婚後8カ月間はおとなしかったものの、山陽の奔放な行動は治まらなかった。淳子も病みがちで夫婦の不仲に拍車をかけた。母静子の「梅颸日記」には、早くも10月以降、山陽の行状について「他行他出、放遊、不埒、外泊、過酒」の記述が目立つ。
寛政12年(1800)1月には、その放縦ぶりが我慢の限界を超えた。両親は山陽を厳しく嗜めた。山陽は両親に手をついて謝罪した上、別号「改亭」「悔亭」とし改心の決意を示している。
3月8日、春水は第6回目の江戸勤番に出立した。その後、8月4日付で、江戸の春風あてに、杏坪から山陽の近況が伝えられている。一向に治まる気配はない。それどころか、春に春水の「嶺松塾」に入塾した福井新九郎との宮島通いが頻繁になった。
山陽 脱藩
寛政12年(1800)年9月2日、春水55歳の大叔父伝五郎の訃報連絡があった。留守を預かる静子41歳は杏坪と相談した結果、父の名代として山陽21歳を竹原へ弔問に赴かせることになった。
9月5日、一大事件が発生した。事もあろうに、山陽が竹原への途中、西条付近で従僕を振り切り脱藩したのだ。当時、無届で藩の外に出ることは「討ち首」に相当する重罪だった。頼一家は八方手を尽くして山陽を探し出そうとした。
9月12日、山陽脱藩の第一報は、使者を通じて茶山にも齎された。その後も使者を通じて逐一茶山にも情報提供が行われ、援助を求められた。
10月初旬、山陽が京都福井新九郎の家に潜伏していることが判明。10月13日、山陽は広島から差し向けられた人々に連れられ京都を後にした。その西下途中、山陽はまたもや播磨国斑鳩辺りで人々の目を盗んで脱走した。しかし、やがて足の早い従僕に発見され西進の道中を再開した。10月29日、一行10名が神辺に立ち寄り、神辺に宿をとった。当日、茶山までも二人の応援を頼んで、山陽の遁去を防止するため、態々、宿所に赴き里正(藤井暮庵)と警護の任に当たっている。茶山と山陽、四度目の出会いである。無論、囚人と警護、接見は認められるべくもない。相手の存在を瞥見した程度に留まったものと思われる。茶山は何よりも春水の親として遣る瀬無い心情に心を痛めたことにちがいない。春水もまた寛政12年親戚に宛てた書簡の中で、「案内の凶禍、誠に進退谷(極)まり、神辺禮卿(茶山)の深情」に深謝している。
山陽の処分
寛政12年(1800)11月3日、広島へ連れ戻され、直ちに急拵えの座敷牢へ幽閉される。
享和元年(1801)2月16日、妻淳子を離縁する。20日、長男都具雄誕生。
(享和2年(1802)12月10日、「日本外史」の一部の稿なる)
享和3年(1803)12月6日、幽閉を解かれる。
文化元年(1804)1月15日、廃嫡される。
文化2年(1805)5月9日、謹慎を解除される。
この間、山陽は築山捧盈宛に「日本外史」について「愚夫壮年之頃より、本朝編年之史、輯(あつめ)申度志御座候処、官事繁多に而、十枚計致しかけ候侭にて、相止申候、私儀幸隙人に御座候故、父の志を継、此業を成就仕」と書簡を送っている。
実はこの外界と一切遮断された幽閉生活こそが、山陽をして「私は天才ではなく努力の人」と言わしめ、「読む(詠む)、書く(写す)、歩く」文芸上の技を洗練、初志を貫徹させたバックグラウンドと言える。
文化2年(1805)8月26日、春水は山陽、養嗣子景譲らを引き連れ、父祖の展墓と山陽の保養を兼ね竹原へ赴いた。9月18日、招待を受け、茶山が西山孝恂(雅号復軒)を伴い来訪。9月22日まで、春水、春風、山陽らと普明閣などで交遊した。
山陽、廉塾都講
井伏鱒二は、「頼山陽も茶山先生のところに来て教えを受け菅家の養子に入ることになっていたが、山陽は法螺吹きで無軌道だったので入籍の話が沙汰やみになった」(半生記)
と簡略にまとめているが、事の経緯は次のとおりである。
 文化6年(1809)、茶山62歳は、山陽脱藩の寛政12年(1800)、菅家と郷校「廉塾」の後継者と恃む弟恥庵に先立たれ、後継者問題に苦慮していた。その間、春水から親の身贔屓か「不行跡と申事姦夫の、賊盗のと申事には無之候」山陽の身の振り方について幾度か相談が寄せられていた。折も折り、恥庵夭折に伴い、養嗣子とした甥萬年と娶わせた姪敬の子二人が相次いで夭死、更に萬年その人も二年来臥病中とあって、堪らず9月16日、 茶山は春水に表面的には「廉塾都講としての山陽招聘」、内実は「廉塾後住職、心は養子に候」塾と菅家の後継者への思いを筆に託したものと考えられる。その証左に婿養子並の祝い金を送り届けている。 
 12月27日、誕生日を再出発の日と目し、山陽は広島を出発、29日に来塾した。「身如病寉脱籠樊」来塾直後の心境としては本音であったと思われる。神辺滞在中の山陽について茶山は「文章は無双」「すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれれかしと奉存候事に候。」(文章については高い評価、為人については早く歳相応の分別を身につけてもらいたい。)と伊澤蘭軒に書状を送っている。
やがて、多くの逸話の締めくくりとして、出奔時書き残したと伝えられる「水凡、山俗、先生頑、弟子愚」田舎での単調な生活に倦み、福山藩へ出仕、妻帯などを勧める茶山や周囲の思惑に煩わしさが点火薬となって、少壮時から抱き続けた「安得類故人千戴列青史」の夢を実現するため、「三都」へのアクションプランとなったものと思われる
山陽 廉塾出奔
文化8年(1811)2月6日、「三都のような大処に出て当世の才俊と被呼候者と勝負を決し申し度」い山陽32歳は、遂に弟子の三省を同道、廉塾を去ることになった。茶山とすれば、本人自身の神辺での脱線振りもさることながら、親友春水への気配りから湧出する憤りを抑えて次の詩を贈ったものと思われる。
    子成将東行
僻處偏悲歳月移 僻處 偏に悲しむ 歳月の移るを
擔簦千里訪親知 簦(かさ)を擔う(遊学)千里 親知を訪う
 由来上国饒才子 由来 上国(上方・京都) 才子 饒し
誰伴樊川作水嬉 誰か樊川(杜牧)に伴うて水嬉(舟遊び)を作さん
 この詩について、「嫌味たっぷりな餞詩」説と茶山ならではの「真面目な訓戒」説との阿相反する二説がある。
「さし籠になって、はるばる父の親友のもとにやって来た。こんな片田舎で空しく歳月の流れるのが悔やまれてならないであろう。ところで、いまや君の赴こうとする上国には語るべき俊才が多かろう。」は衆目の一致するところであろうが、問題は結聯の文理解釈。「晩唐の詩人杜牧(樊川)のように青楼に遊ぶのもさぞ楽しみであろう。」か、それとも「お前のように好い加減な男と樊川のように誰が遊び相手になってくれようか。」
木崎愛吉氏は「物ごとの観察に鋭く表裏洞見、而も皮肉と善諧に長じた日頃の茶山として単に遊蕩を戒めるようなお役所形に過ぎたるは少々喰い足らぬ言葉のように読みとらるる」と。
事実、文化8年(1811)、尾道の平田玉薀(29歳)が母妹と一緒に山陽の後を追って京都へ赴いたが、山陽自身の告白「吾実に負き了んぬ」結果に終わり、さらに文化10年(1813)大垣の女弟子江馬細香との艶聞など枚挙に遑がない。文政6年(1823)、山陽の6回目の転居先「水西処」について、祇園近くにあることから、「成鄰嫌接笙歌市」と詠み茶山に贈ったところ、「成鄰悦接笙歌市」、近隣の音曲が嫌なのではなく悦にいっているのではないかと茶山が返書。茶山も山陽の女癖に懸念、それが身の破滅に繋がらないように心配していたことは否めない。
その後、昌平、亀吉が後を追って上洛したことも、茶山の心境を損ねた。
「勢田途上」の茶山と山陽
 文化11年(1814)5月6日、藩主阿部正精から出府を命ぜられた茶山67歳は廉塾を北条霞亭の監督下に委ね、甲原玄壽・臼杵直卿を伴い神辺を後にした。
 この情報を入手した山陽は5月16日、福山藩大坂屋敷に逗留中の茶山を訪ね、京都を経て、22日は武元登々庵とともに近江石場まで見送ったものと考えられる。
   勢田途上
蹄輪絡繹路弯環 蹄輪(車馬)絡繹(ひっきりなしに)路弯環
不識何邊送者還 識らず何れの邊をか送者還る
只有恨人行且顧 只恨人(見送り人と別れを惜しむ人=茶山)の行きて且つ顧みる有り
満湖烟雨暗逢山 満湖(琵琶湖)の烟雨逢(坂)山を暗うす
 茶山の引に「是日與送者別于石場」とあるが、送者の記名がない。この事について、のちに、山陽が校注で「茶山先生の真意が判らない」とか、「その時、景文、譲とともに雨を衝いて還り、民家の麦稈を乞ひ得て、笠に代え、亦頻々と回顧せり」の一文がなければ、闇に葬られたままになっていただろう。寛容で知られる茶山だが、この時点ではまだ「後足で砂をかけた」と同然の仕打ちをした山陽に対する憤怒が完全には氷解していなかったものと思われる。
 (文化12)2月26日、生涯に唯一度新年を江戸で迎えた茶山は神田小川町福山藩上屋敷を後に帰国の途についた。3月10日の夜、京都の定宿俵屋に草鞋を脱いだ。そして、17日までの一週間、鳥邊山の弟信卿の墓参、桜見物、友人知人との往来、有志による主客茶山送別会への参席など多忙な日々を送った。13日は、山陽が同道、桜を愛でながら北野天満宮参拝、夜は平野川沿いの旗亭で一席設けるなど、茶山との心の縺れをほぐそうと懸命であったことが判る。
 父春水は親友茶山への遠慮
 1813年(文化10)春水68歳は3月1日~5月13日、
3月26日、篠崎邸で父子対面
4月23日、山陽、父を西宮まで見送る
 1816年(文化13)2月19日、春水(71歳)が他界した。その日、山陽は危篤の報に取るものもとりあえず京都を出発。22日頃夜、神辺で茶山の駕籠を借りて広島へ急いだ。
 3月24日~26日、廉塾泊
文政元年(1818)「吾実に負き了んぬ」山陽→田能村竹田 於 豊後
 1月30日~2月2日、山陽、父春水三回忌法要を行うため弟子後藤松蔭を伴い帰省途上、茶山を訪ねる
1819年(文政2)2月23日、山陽は母の寂寥の日を慰めん為、母、尚平(春風二男)、映雪、同伴上京
 譲が筑紫より帰りて、いざたまへ嵐山の花見せ奉らんと。協(
?寛政2年 6月 山陽の高弟 宮原節庵「平田玉薀墓」
 1819年(文政2)山陽、静、尚平(春風次男)、映雪
 2月23日~2月28日 神辺 北条霞亭宅(伊勢旅行中留守宅)泊
 過廉塾
燭照屏間字 燭は照らす屏間の字
時有阿爺書 時に阿爺の書有り
 筆者は永年この詩中の「阿爺書」を識りたいと願っていた。森鴎外によれば、文化3年伊澤蘭軒が廉塾を訪れた時、蘭軒が廉塾の叙景に添えて「茶山に贈った詩だそうである」と述べている。
田稲池蓮美且都 田稲 池蓮 美にして且つ都びやかなり
柳陰風柝架頭書 柳陰 風は柝く 架頭の書
鳥啼山客猶眠熟 鳥啼いて山客猶お眠り熟す
便是網川摩詰盧 便ち是網(輞)川なる摩詰(唐の詩人王維)の盧



 4月26日帰広、神辺泊 27日、霞亭と初対面
 文政7年(1824)10月15日、毎年10月の望、蘇東 の後赤壁の遊びに擬して、詩会を催し、吟客を引いたもの。
  
文政8年(1825)9月12日、叔父春風が脳溢血のため急逝。享年73歳。折から
山陽は請われて姫路藩二寿山学問所へ出講中だったため訃報連絡が京都経由で大幅に遅れ、月が変わって10月3日、竹原へ向かう途中、茶山78歳を訪ね一泊。竹原から広島の母ご機嫌伺いに立ち寄った後、10月15日、京都への帰路、来塾。折しも、その日は偶々一年前、山陽が京都遊覧を終えた母を伴って神辺に立ち寄った恒例の十月望詩会(お月見詩会)の日。山陽は茶山に誘われまま、共に詩会に臨んだ。
 君悲此行喪大阮 君は悲しむ 此の行 大阮(叔父)を喪するを 
 客喜當筵得老坡 客は喜ぶ 筵に當りて老坡を得しを
 (中略)  
 南阮有喪雖可悼 南阮(春風)喪有りて悼む可しと雖も
北堂無恙亦堪歌 北堂(母静子)恙無く 亦歌うに堪えたり
 予期せぬ賓客の来会に出席者は大いに喜んだが、茶山は父に次ぐ叔父との哀別離苦の宿
命に沈む山陽の心中を察し「母上が健在なのがせめてもの救い」と慰めた。
近年山陽は「翁老飲酒有限近又滅之」茶山の酒量の変化には気づいていたが、これも衰
老のなせる業と自分に言い聞かせ、これが最後の往問とも知る術もなく、茶山のもとを辞
去するに当たって次の詩を贈った。
  辞廉塾
 荷枯鴨相逐 荷(蓮)枯れて鴨相い逐い
菊老蝶猶翻 菊老いて蝶猶翻える
 夜話緑尊酒 夜話 緑尊の酒
寒燈黄葉村 寒燈 黄葉村
 吾曹更誰望 吾曹 更に誰をか望まん
父執有君存 父執 君の存する有り
 臨別無侘語 別れに臨んで侘語無し
加餐度旦昏 加餐して旦昏を度れ
 茶山先生が健在な限り私が特に望むことはない。別れに際しただ朝夕栄養のあるものを
充分摂って長壽を・・・。 
 それから二年後、文政10年(1827)8月13日、茶山は病歿した。享年80歳。
  問菅翁病不及而賦此志痛
(一)
 治装忙上路 装いを治めて忙しく路を上る
 聞病遠関心 病を聞いて遠く心に関す
 暮宿追星見 暮宿星の見るるを追い
 宵征送月沈 宵征(夜行)月の沈むを送る
 吾行雖意憚 吾が行 意に憚ると雖えども
 父執念恩深 父執 恩の深きを念う
 冀及少聞日 冀くば少聞の日に及び
 猶陪微酔吟 猶陪微酔の吟に陪せん
同年8月12日、「推輓藝場上 抜離官網中」の恩誼を蒙った茶山重篤との報に、山陽は「聞病趨千里」西下を急いだが「中途得訃傳」。「不能同執紼(棺を引く綱)」葬儀にも間に合わなかった。
(四)
曾栽記花木 曾て栽えし花木を記し
手畜識鵝鳧 手ずから畜いし鵝鳧を識る
触目皆堪涕 触目 皆涕するに堪えたり
辞門未作駆 門を辞して未だ駆を作さず
 新阡労顧望 新阡顧望を労し
旧校慮荒燕 旧校荒燕を慮る
 分手勉孤子 手を分つとき孤子を勉めしむ
肯能堂構無 肯て堂構を能くするや無(否)や
 廉塾での生活は束の間の一年余であったが、その昔自らが植栽した思い出の花木や飼育していた家禽類を目の当たりするにつけ懐旧の念に胸を塞がれ落涙を禁じがたい。
網付谷で真新しい墓道の先に眠る故人の冥福を祈った山陽は何度も何度も後を振り返り
ながら、墓地を後にした。気懸かりなのは廉塾の行く末。その時、後継者、孤子(菅三・惟縄・自牧齋)は齢18歳、茶山が一念発起、疲弊した宿場町、否、世の中に「学種」を蒔くために興し、就中、後継者問題で意を砕き思うに任せなかった廉塾を末永く立派に存続させて行くことができるのであろうか。

茶山・山陽往来譜
西 暦 元  号
茶山・山陽   記                                        事
←以下、元号下の数字は茶山(左)・山陽(右)の年齢
1788 天明8
41・ 9 6月5日~7月6日 遊芸日記の旅 藤井暮庵同道
6月10日 茶山・山陽、初対面 於 広島・春水宅
1797 寛政9
50・18 山陽、江戸遊学・東遊漫録の旅 叔父杏坪同道
3月17日、神辺に茶山を訪ね、 一泊
翌寛政10年5月、山陽、江戸からの帰途、廉塾に立ち寄る。
1800 寛政12
53・21 9月5日、山陽、在府中の父の名代として大叔父伝五郎の弔問に竹原へ赴く途中、脱藩。京都で身柄を確保されて西帰途上、10月29日、神辺泊
11月3日、広島に連れ戻され、直ちに座敷牢に幽閉される。
1805 文化2
58・26 5月9日、山陽、謹慎解除。8月26日、父春水らと竹原へ保養に赴く
9月18日~22日、茶山、西山復軒が竹原に赴く
1809 文化6
62・30 12月29日、山陽、廉塾都講として神辺に来る
文化7年11月14日、口頭に代えて手紙で茶山に宿志を述べる、
文化8年2月6日、山陽、廉塾を脱去、京都へ向かう
1813 文化10 3月1日~5月13日、春水68歳、聿庵を伴い有馬温泉湯治
3月26日、篠崎邸で父子対面を果たす
~4月23日、山陽、春水らを西宮まで見送る
1814 文化11
67・35 茶山、阿部正精の命により出府
5月16日、山陽ら大坂で江戸へ向かう茶山を出迎え、ともに東上、21日、石場で別れる
* 8月18日、山陽、父春水の病気見舞いのため帰省途上、茶山留守中の廉塾に北条霞亭を訪ねる。朴齋と久闊を叙す
9月29日、山陽、広島からの帰途、廉塾を訪ねる。市川寛齋、北条霞亭、門田朴齋と鞆・対潮楼、仙酔島に遊ぶ
1815 文化12
68・36 3月、山陽が京都で江戸から西帰途上の茶山を出迎える
13日~17日、茶山、山陽らと行を共にする
3月29日、茶山、神辺帰着
4月4日、山陽、春水病気見舞いのため鞆経由帰省途中、茶山を訪ねる?
1816 文化13
69・37 2月19日、父春水(享年71歳)歿。この日、山陽、春水危篤の報に京都発、22日頃夜、神辺で茶山の駕籠を借りて広島へ急ぐ。
3月24日~26日、山陽、広島からの帰途、茶山を訪ねる
1818 文政元
71・39 1月30日~2月2日、山陽、父春水三回忌法要を行うため弟子後藤松蔭を伴い帰省途上、茶山を訪ねる
3月6日、茶山、「戌寅大和行日記」の旅、奇しくも同じ日、山陽、九州遊歴、「西遊稿」の旅、出発
1819 文政2
72・40 2月4日、山陽、九州旅行から帰省
2月23日、京遊出発
2月28日~30日、山陽、母静子60歳、尚平(春風二男)、友映雪尼を伴い、上洛途上、茶山を訪ねる。北条霞亭(伊勢旅行中)留守宅泊
4月26日、山陽母子が京都旅行からの帰途、茶山を訪ね一泊
5月20日~23日、山陽、帰洛途上、茶山を訪ねる
1824 文政7
77・45 10月15日~17日、山陽母子が京都からの帰途、茶山を訪ねる
10月15日、詩会に招かれる
11月30日、母を送り届けた山陽、広島からの帰途、茶山を訪ねる
12月5日、丁谷梅林で別れを惜しむ
1825 文政8
78・46 9月12日、叔父春風歿。享年73歳。姫路へ出講中の山陽へ京都経由の連絡で遅延。
10月2日、山陽、叔父春風の墓参のため竹原へ赴く途上、茶山を訪ね、一泊
10月15日~18日、山陽、竹原経由広島からの帰洛途上、茶山を訪ねる
1828
文政10
80・48 8月13日、茶山歿。享年80歳
8月11日、山陽、茶山重態の報せを受ける。8月12日、山陽、西下、神辺へ向かう
8月20日、茶山、網付谷に葬られる
1832 天保3
  ・53 9月23日、山陽歿
9月25日、東山長楽寺に葬られる

幼少年時代の山陽 神童or異端の子 
神童or異端の子?山陽にはいくつかの逸話が残されている。
不可思議な天
天明5年(1785)、山陽6歳は母に尋ねた。
山陽「天とはどんなものですか」
静子「天が円く見えるのは、この大地が丸いからです。しかし、太陽だの月だの星だののというももこの大地と同じように日夜動いてやまないのです」
山陽「不思議だなあ、不思議だなあ」と云いながら、さめざめと泣いた。
父君帰らず。麦帰る
天明6年(1786)、山陽7歳の晩春、父春水が江戸から帰国するとの報に、下女と出迎えに遠出したが、いくら待っても父の姿は見えない。やっとそれらしい人影が現われたと思ったら、それは麦の束を担いだ農夫であった。
山陽は帰宅すると、「家君不返唯麦帰」と書いた紙片を母に示し母を感服させた。